原発不明がん 余命宣告 記念日💝
2015年4月16日木曜日
午前はいつものように仕事をして、午後から検診で病院へ
いつまでたっても呼ばれなくて💦
でもなんとなく、ただ事ではない予感もして
(からだの声は聞こえていたけれど、無視してました😰)
名前を呼ばれ診察室へ
「櫻井さん、すぐに入院して輸血を開始しましょう。よく動いてこれましたね」
「えーー💦無理です。明日も土曜日も仕事があります。それを片づけてからまた来ます」
そんなことを言っている私に、先生は静かに言いました。
「あのね、今の櫻井さんのからだの状態ではとても年内はもたない。早ければ3か月の状態なんですよ」
「まさか」という気持ちと「やっぱり」という気持ち
血液検査の紙が並んだ机に、頭をこすりつけるようにうつむいていたのを覚えています。
そして
「これでやっと仕事が辞められる」そう感じたのも確かです。
からだの異常は感じながも、休むことができない自分だったから💧
先生には、「今日すぐというわけにはいかないので、月曜日に入院します。」
そう言って診察室を出てきました。
(あとで看護師さんから再度入院を勧められる電話が来ましたが)
そして病院の帰り、まっすぐタクシーで職場へ行き、上司に退職の意思を告げました。
翌日、いつものように始業より1時間早く出勤し、誰も来ないうちに荷物をまとめ、ロッカーと机の掃除をしました。
もう戻らないと決めたから❗️
本当はその翌日土曜日も出勤でした。
でも職場で調整をしてくれて、出勤しなくてもよくなりました。
その時私の頭に浮かんだのは
「藤倉さんに会いに行ける❣️」
藤倉 肇さん
財政破綻した夕張市を再生させようと立ち上がった 元夕張市長
おなかの中のがんが破裂し、体中に飛び散り、「多重性末期がんでもう助からない」と言われた方です。
それでも夕張市を再生したように、
病院から自分の意志で家に帰り、毎日笑って自分の治す力を発揮し、復活されていました。
そして
「スマイルガンファイター」
と名乗り、講演活動をされていました。
笑い学会で何度もお会いして勇気をもらっていました。
その藤倉さんの講演会が土曜日、岩見沢で開催されることになっていたのです。
仕事だからとあきらめていたけれど、これで行ける❗️
夫に頼み込み、連れて行ってもらいました。
講演会が終わった後、
「私、月曜日から入院なんです💦でも必ず戻ってきます❗️」
すると藤倉さんは私の手をがっちり握って
「大丈夫だ‼️
復活したらスマイルガンファイター2号として一緒に講演して歩くぞ❗️」
痛いくらいに私の手に力を込めてパワーを送ってくれました。
余命宣告をされた私が、自分の力を信じて「奇跡は起こせる!」と思えたのも、このタイミングで目の前に奇跡を起こした人がいてくれたから✨✨✨
たくさんのパワーをもらって月曜日から入院し、
輸血、点滴の開始
高い熱、腸閉塞も起こしていました。
腹水も腹膜播種も😱
お腹の痛みはそれだった💦
一週間、続けたけれど
からだの状態は何も変わらず😥
その後、治療方法もないからホスピスを探すよう言われたけれど、
死ぬ覚悟をして、無理やり家に帰り
家じゅう断捨離もしたけれど
お葬式の写真もお金も箱に詰めて準備したけれど
たくさんの仲間と巡り合い、励まされ、たくさんの大丈夫パワーを浴びて復活しました❣️
「私はがんで死ぬわけがない‼️」
そう強く確信しました。
みんなが愛を送ってくれました。
そしてその愛を受け取り、自分を信じて、自分を労わり、治療と向き合いました。
今、馬車馬🐎になって走り回れるようになったのも
笑顔でいられるのも
たくさんの仲間に支えられ、自分の治る力を発揮できたから。
私と出会ってくれた皆さん💕
ありがとうございます。
でもね💦
あの時、私を支えてくれた友が旅立ちの知らせが入りました。
私が一番苦しい時に、「今はわがままになっていいんだよ!」
といつもメールで励ましてくれました。
一緒に笑いヨガリーダー養成講座を受けて、
一緒に施設を回って笑いを届けていました。
私が念願の「笑いヨガクラブ」を立ち上げた時、
全面的にバックアップしてくれました。
私と年も変わらない、そんな若さでの旅立ち💦
余命宣告を受けた私が、今元気で
励ましてくれていた友が先に旅立つ
命の長さは、その人の魂が決めていること
だから、私は私の命を生きる。
いっぱい泣いて、ありがとうを伝えて
今の私を生きることを約束して
また、前に進みます。
0コメント